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自由になれた気がした 25の春。

もめです。
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長いですよ。文章。


あれは2007年11月4日、鳥取県植田正治写真美術館を後にした車内、
その数十分前に私のパートナーとなったコーヘイはこう言いました。

「一人の女性も幸せにできないで、どうして社会の幸せを実現できるだろうか。
 やっとできそうで良かった」


クッサー!(って思いましたでしょう)


その時の私は、こんな考えの人物が今まさに自分の真横にいることに驚愕したのですが、
今はそのロジックで、更にひとつ前の幸せの実現が大切だと感じてます。
更に前、つまり自分自身。
自分自身を幸せにできないで、どうして人の幸せを実現できるだろうか。


先日出会った、確固たる自信によってできたオーラを感じずにいられない
美しい女性がこう言ってました。
頭でなく心で感じたことは、そのままその現実をひきよせると。
その考えを当てはめると、自分が幸せを心から感じていないと、幸せな現実はやってこない。
周りには同じような感情の人ばかり引き寄せてしまう。
そして他人は変えられないけれど、自分は変えられるし、自分を変えられたら
自然と自分の周りは変わるということです。
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私たちは最近、素敵で刺激的な出会いがたくさんやってきてます。
驚くほどドドドっと。
よく私は、私だけでは何もできないから
アンテナだけはしっかりたてていい出会いをキャッチしようと言っているのですが、
自分たちの心が発信している想いも変わったからだな、と思ってます。
そんなことを言っていると、やっぱり周りの人たちも
覚悟をきめたらいろんな出会いが一気にやってきた、と言っているのを聞きます。
まだまだ出会いが続く予感がして、とってもわくわくしてます。



あともうひとつ。
最近、私たちは高野先生からのご縁で、自然農という考え方に出会いました。
(書物で、文字で、でなく1次情報として、現場での出会い)
私たちはその考え方に触れて、心が落ち着くのを感じて、私たちもやってみようと決めたのです。
その時「周りや師匠から反対されるかな」とコーヘイが言ったので、
「自然農は反対されるものだとか、自分がそういう固定概念を持っているから反対されるんだ、
 そういう考え方は捨てたら、そんな風には思われない」と私は思って、コーヘイに伝えました。
実際、師匠は笑顔。
今私たちは、集落支援員という形で(実際書類上はコーヘイひとりだけど動くのは2人)
地域の限界集落に入ってコミュニケーションをとりはじめていますが、
そこでも固定概念とはお別れしています。
受け入れられないものとか思うとそうなるし、思わなければ、そうならないんです。
そもそも自然農は固定概念から解放された思想の表れですから。



この「固定概念からの開放」ということも先日お会いした女性は言っていました。


そういえば自然農というキーワードで繋がった女性は
「雑草を食べている」といっていて、カラスノエンドウなんかは若いところはおいしいし
蓮華の花は甘くておいしいとか言うので、食べてみたらおいしい。
もはや雑草でなく食糧。
そうすれば庭にはなんて食糧だらけ!とか思えちゃったり。
そら食べれるでしょ、とも思うかもしれないけれど
コロンブスのたまごと一緒で、本当に思ってて実行しているのと
それを受けて「できるっしょ」と言っているのとは大きく違いますよね。
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本棚を整理してた時、大学卒業前に会社の同期の女の子と京都に旅した時
その女の子がつくってくれた芸術的センス溢れるアルバムを手に取りました。
その時訪れた「何必館」という超素敵なスペースの名前の由来も、このことと同意だと思います。
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「人は定説にしばられる。
 学問でも、芸術でも人は定説にしばられ 自由を失ってしまう。
 定説を『何ぞ 必ずしも』と疑う 自由な精神を持ち続けたいという願いから
 『何必館』と名づけました」


私はこの言葉がとても好きです。

定説に縛られないようにと思っている時点では、すでに定説に縛られているように思います。
それではどうしても、定説に対しての不快感とか憎しみ、違和感が付きまとってしまうから。
たとえば「なぜ社会はこういう仕組みなんだ、そうじゃないだろう」とか思っているような状況。
何必館のこのメッセージはそれからも解放されたような、
雲の上に漂いながら、真の自由に包まれているような感じを受けます。
言葉並びのもつ穏やかなエネルギーのせいかな。
固定概念、というとなんかそもそも自分を縛りそうな言葉だけど、
今の私の心は何必の精神に近い感覚、そんな状況です。
だから、なんか重苦しい感情とかをほとんど感じなくなってきました。
我が家から愚痴という種のものも、だんだん減少気味です。



それには先日の金曜日から徳島の神山、岐阜の加子母、岡山の赤磐、和気、などなどでの出会い、
そして過去に遡って多くの出会いによって感じえた感覚です。
共に行動していたコーヘイに伝えると、「そう!俺もその感覚!」と言ってました。


本で得る言葉もとても素敵なものがいっぱいあるけど、
一次情報として現場で得るものというのは、心と身体にスーッと入ってきます。


また例の美しい女性が「無意識の盗用」についての指摘もしていました。
人から聞いた言葉や考えを、会話の中などで
まるで自分の言葉のように語ってしまうことはよくないと。
論文などでは当たり前のように出自を明らかにするのに。
その言葉の生まれたところに感謝の気持ちも込めて、自分の言葉と人の言葉とは意識して
わけながら書きました。



自分で勝手に自分の限界を決めてしまっていて、
今起こっていることは、すべて自分の想いによってやってきていること。
幸せな心の人のそばには幸せな人が寄っていきます。
ネガティブな感情に支配されていると、そばに居る人も苦しくさせてしまうから、きっと離れて行っちゃいます。
類は友を呼ぶ、そのもの。
自分を幸せにすることが何より大切、というのは
一見とても身勝手なようだけれど、本当はとても大切なことで、
自分を不幸にすることがもっとも身勝手なのかもしれない、そう思いました。

自分、と言っても、周りに生かされている自分を。
一人で生きていける人間なんてありえないから。他の生命体だったりも含めて。


何にも縛られる必要はないんですよね。
受け止め方次第なのかな。
昔からずっと私は「固定概念」というものに反発しまくってきた次女でしたが、
それこそ何にも縛られたくないと歌った尾崎のように攻撃的な15の頃・・・。
(盗んだバイクで走ってないけど、真面目だったけど)
それに親やら妹はどんな想いをしたことでしょうね。

今はもっと穏やかな気持ちです。
さあ、今日は気候も穏やかです。
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